8月18日は「お米の日」です。
北海道の有名なお米「ゆめぴりか」や「ななつぼし」と、大阪府太子町に実はご縁があることをご存知ですか。
「ゆめぴりか」たちの誕生に欠かせない寒地稲作(かんちいなさく)の基礎を確立した中山久蔵(なかやま きゅうぞう)氏は、太子町春日で生まれました。
今回はこの「お米の日」にちなんで、太子町出身の中山久蔵氏についてご紹介します。
中山久蔵とは
中山久蔵は1828年、江戸時代の河内国石川郡春日村(現在の太子町春日)に生まれました。
幼い頃から強い信念を抱きながら成長し、17歳から諸国を放浪しています。
その後、25歳で仙台藩に仕えながら蝦夷(現在の北海道)守護の任につき、明治維新を機に1869年に42歳で北海道移住を決意しました。
紆余曲折を経て、1873年に札幌郡月寒村島松(現北広島市)へ移り、稲作に挑んだのでした。
中山久蔵は北海道の開墾だけでなく、寒い土地でも育つ耐寒品種の稲「赤毛」を生み出すことで、ムリだと思われていた北海道の稲作の基礎を作り上げました。
中山久蔵と寒冷稲作
明治維新頃の北海道では「寒すぎて稲作の普及は難しい」と考えられており、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名な札幌農学校教頭のクラーク博士でさえ諦めるほどでした。
しかし、その定説をくつがえしたのが中山久蔵です。
中山久蔵は、寒さに強い品種の稲「赤毛」でさえ枯れてしまう北海道の寒さを乗り越えるために水を温める「暖水路」という手法を確立しました。
昼夜を問わず風呂で水を沸かして水温を保つなど、並大抵ではない努力と情熱を注いでいたことがわかります。
また、中山久蔵は苦労して育てた「赤毛種」を多くの北海道の農家に無償配布しています。
利益を独占せず、自身のつちかった寒冷稲作の手法を惜しみなく人々に伝えて回りました。
その功績からこの「赤毛種」は「中山種」と呼ばれ、現在の北海道の米食味ランキング特Aである「ゆめぴりか」や「ななつぼし」などに受け継がれています。
クラーク博士の「Boys be ambitious」は中山久蔵を指している?
中山久蔵が北海道の稲作に与えた功績はあまりにも大きく、このような逸話が残っています。
有名なクラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス(Boys, be ambitious)」という言葉があります。
この言葉には実は続きがあるとされ、
「Boys, be ambitious like this old man(少年たちよ、あの老人のように大志を持て)」
この言葉の中の「like this old man(あの老人のように)」は、晩年の中山久蔵を指しているのではないかと言われています。
中山久蔵の功績の大きさや、その志の深さを物語っているのかもしれません。
太子町にみる中山久蔵の足跡
北海道で稲作に成功した中山久蔵は、晩年に故郷である太子町にも思いを寄せており、自身の菩提寺である太子町の光福寺に、石段や石畳、お米などを寄付しています。
この光福寺の本堂ちかくの石段には「石狩國月寒村 中山久蔵」と彫られていて、その記録が残されています。
また、1919 年(大正8年)に中山久蔵がなくなった後の戒名「耕種院亀岳鑑翁居士」も、光福寺にある過去帳でみることができます。
なくなる間際まで農業の普及に志を燃やし、北海道の道路工事や学校設立などに精力的に取り組んだ中山久蔵は、太子町が誇る人物です。
太子町役場からあるいて5分ほどで光福寺の石段にたどり着きます。
お近くに寄られた際はぜひお立ち寄りいただき、中山久蔵の生き様に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
アクセス
名称 | 光福寺(こうふくじ) |
住所 | 〒583-0991 大阪府南河内郡太子町春日1786 |
電話 | 0721980713 |
アクセス | 太子町役場より歩いて5分 |
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