シリーズ「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
太子町の歴史や史跡を紐解くこのコーナー、先週は「え:栄華(えいが)は鎌倉 頼朝と政子」をご紹介しました。
本日は「え」に続き、「お」のかるたである「小野妹子」の句を解説します。
「お:小野妹子(おののいもこ)は遣隋使(けんずいし)」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「お」の読み札は、「お:小野妹子は遣隋使」です。
日本史の授業で小野妹子について学ばれた方も多いのではないでしょうか?
太子町の科長神社の南側、小高い丘の上に小野妹子のお墓があります。
この小野妹子のお墓は平成元年に大阪みどりの百選にも選出されており、取札の切り絵にはこの小野妹子の墓の長い石段と緑豊かな木々が描かれていますよ。
かるたの説明書きには、以下のように解説されています。
「大字山田の東方にある小野妹子の墓。高さ3メートル、長さ12メートルの塚で、大正5年に妹子を華道の祖と仰ぐ池坊(いけのぼう)が整備をした。現在も6月に墓前で献花祭を行う。遣隋使であった小野妹子は聖徳太子の薨去(こうきょ)に際し墓前に花を手向けたと伝える。」
小野妹子とは
小野妹子は飛鳥時代に聖徳太子や推古天皇に仕えた人物で、当時の中国に合った大国の隋(ずい)に遣隋使として派遣されたことでも有名です。
『日本書紀』には、隋の2代目皇帝である煬帝(ようだい)に国書を届けるために派遣されたと記されています。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言で、煬帝に激怒されたという逸話も有名ですね。
ちなみに、小野妹子は帰国の際に煬帝からの返書を紛失しており、推古天皇の恩赦によって罪に問われなかったとされています。
命がけで隋に渡り、日本の代表として皇帝に謁見するなど歴史的に重要な役割を果たした小野妹子ですが、実はその生涯は未だに謎に包まれており、生没年なども詳細はわかっていません。
実際に小野妹子の墓を訪れてみました。こちらの記事もぜひあわせてご覧ください。
小野妹子の墓へのアクセス
自然が豊かで桜の名所と知られる小野妹子のお墓、ぜひ訪れてみてくださいね。
名称 | 小野妹子墓 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町山田 |
アクセス | 近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス太子中央循環線に乗り「推古天皇陵前」または「山田」で下車、徒歩15分 |
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