シリーズ「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
先週は、「や」の句から、太子町の文化遺産である「大道旧山本家住宅」をご紹介しました。
今週は、「や」に続き「ゆ」で詠まれている、太子町から出土した銅鐸についてのお話です。
「ゆ:ゆらせば響く 銅鐸(どうたく)の音」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「ゆ」の読み札は、「ゆ:ゆらせば響く 銅鐸(どうたく)の音」です。
絵札には、切り絵にて白黒で表現された銅鐸が描かれています。
銅鐸の表面に描かれている細かな渦巻きの模様まで見事に表現されていることが分かりますね。
そして筒井先生の解説は以下の通りです。
「二上山の山腹で明治時代に発見されたこの銅鐸は高さ48センチメートルで、渦巻きの文様があります。2000年前の弥生時代の中頃のものでムラの祭りのときに鳴らされ たと考えられています。
太子町にはこの他にも2つの銅鐸が出土したことが分かっており、当時の大きなムラが周辺にあったと思われます」
銅鐸(どうたく)
銅鐸(どうたく)は、日本の弥生時代(紀元前3世紀から紀元後3世紀)に作られた、銅製の祭祀用具のことです。
円筒形または鐘形をしており、一般的には内部が空洞で、取っ手がついていますが実際には鳴らすための楽器というよりは、儀式用の装飾品や地位の象徴として使われた可能性が高いといわれています。
銅鐸は、多くの場合、装飾が施されており、その表面には動物や抽象的な模様が刻まれていることが特徴です。これらの装飾は、当時の人々の宗教観や世界観を反映していると考えられています。
また、銅鐸は主に日本の西部地域で発見されていますが、同様の銅製品は朝鮮半島や中国でも見られ、当時の東アジア地域の広範な交流を意味しています。
二上山の山腹で明治時代に発見されたこの銅鐸は高さ48センチメートルで、渦巻きの文様があります。2000年前の弥生時代の中頃のものでムラの祭りのときに鳴らされたことも推測可能です。
太子町にはこの他にももう2つの銅鐸が出土したことが分かっており、当時の大きなムラが周辺にあったことも予想できます。
かるたの読み札には「ゆらせば響く」と詠まれていますが、今から2000年前の銅鐸の音は一体どんなものだったのでしょうか。
太子町から出土した銅鐸は、太子町立竹内街道歴史資料館の第2展示室にて展示されていますので、ぜひ資料館を訪れた際は一度ご覧ください。