そろそろ桜の蕾も色づいて、そこかしこの家で雛人形が飾られる時期ですね。
太子町大道在住のつっついっちさんが、雛人形の源流考察や思い出を寄稿してくださいました。
つっついっちさんは、太子町山田地区の軒下ギャラリーの管理もされています。
ひな人形の歴史など、勉強になることばかりです。ぜひご覧ください。
雛の源流
最近、百貨店の雛人形の売り場を見る機会がありました。ここ数年、雛人形の売り場を見る機会がなかったので、その変化に驚きました。
人形の大小はともかく、売り場の人形は内裏雛1対のものばかりだったのです。
あの有名な「うれしいひなまつり」の三人官女も五人囃子も、右大臣左大臣も、姿を理解していくことは難しい時代になりつつあるのかもしれません。ちなみに数年の傾向としては、三人官女を含めた三段飾りが、豪華版となるようです。
雛人形のはじまり
さて、雛はいつ頃から存在するのでしょう。
現在、大河ドラマ「光る君へ」の平安時代には雛人形は存在していました。しかし、現在とは違い紙人形であり、少女たちが遊ぶものだったようです。
一方、それとは別に人型として人々の病を取り除く、呪術的な人形も重視されていました。例えば、小児の祓い人形である「天児(あまがつ)、這児」がその代表でしょう。
これらは、出産育児が死ときってもきれないところにあった時代、健康に人間が育つことを願うものでした。
江戸時代の雛人形
雛人形が、呪術的要素を持ちながら芸術的な高みを持つ存在となるのは、江戸時代です。
長い戦乱のあと訪れた平和な時代には、平安時代と同じく日本独自の文化が花開きました。
雛もそのひとつです。季節感と健康への願いの集大成と言えるでしょう。
雛人形の原型である流し雛
もともと人型に邪気をとってもらい流すといった流し雛は、女児だけのものではなかったことをご存知でしょうか。
流し雛は5節句の一つとして古来より大切にされた国民的行事でしたが、明治時代になるやいなや廃止されます。しかし、それは、完全に消滅することはなく、現代にも残っています。
ある意味流し雛は、奇跡的な存在ですね。
奈良県五條市南阿田の源龍寺の流し雛
さて、まさにこれこそ雛人形の原型、と感じるものに昨年出会いました。
奈良県五條市南阿田の源龍寺の流し雛です。
流し雛は、簡単な素材で1対の雛を乗せた小さな船を、地元の人が作ります。観光に来た人たちにも、手渡され、子どもたちと共に流すことができますよ。吉野川の中流域から、行き着く先は加太の淡嶋神社です。
淡嶋神社の雛流しは、新暦3月3日に行われます。少名彦、神功皇后などが祀られ、古来から女性の健康を願い、厚い信仰を集めてきた神社です。
徳川御三家の一つ、紀伊徳川家も雛人形などを奉納し、姫君の健康を祈願しています。
季節の移り変わりの中での、健康への願いは古代から変わることなく、人々の信仰として続いているのですね。
健やかに美しく生きる、さまざまな人の気持ちの昇華が、雛人形であるといえるでしょう。
我が家の雛
私が生まれた昭和40年ごろは、高度経済成長の頃。そして女子がうまれたら、雛人形が与えられるのは当たり前で、それも7段飾りは憧れの的でした。
かくいう我が家では、父が雛を探し買い求めたようです。
雛人形はなかなか高価で、私の雛は最上段の内裏雛一対です。
憧れの7段の人形にはほど遠い状況でした。
雛人形の思い出
毎年、雛人形は時期がくれば飾られ、京都出身の祖母は京都の雛の飾り方で飾りました。
京都の雛は、向かって右に男雛がきます。男雛は、天皇であり、天皇自身が左に立つということです。京都へ行くと、王朝以来の伝統のまま飾られてます。
また、雛人形の思い出がもうひとつ。
お雛様は、出さない年があると涙を流すというのはよく聞きますが、なんと、血の涙を流すと聞かされました。こう言われると、出さない選択肢はありませんね。
そんな私のお雛様は、私と共に婚家にきました。
子の無事な成長をとこの雛を購入した、父は、昨年亡くなりました。しかし、人形に託された思いは消えないものです。
寄稿・写真提供 太子町大道在住 つっついっち
雛人形に託す思い
雛人形は時代によって姿を変えながら、しかし家族を見守る存在として大切にされてきたのですね。
優しい語り口で、つっついっちさんのご家族が雛人形を囲む様子が目に浮かびます。
素敵な記事をご寄稿いただき、ありがとうございました!
太子町では毎年「懐かしのひな人形展」を開催しています
太子町では、2月末〜3月初旬のひな祭りにかけて、「懐かしのひな人形展」を開催しています。
また、過去の太子タウンの記事でもひな人形についてご紹介しています。筒井先生からご提供いただいた雛人形の来歴やお写真などもご覧いただけますよ。
雛人形を愛でながら、ご家族ごとの思い出やエピソードに浸る時間をお楽しみくださいね。