大阪府太子町は古墳群が多いことで有名ですね。
特に推古(すいこ)天皇陵、用明(ようめい)天皇陵、孝徳(こうとく)天皇陵、敏達(びだつ)天皇陵の4つの天皇陵と聖徳太子の墓を合わせた5つの古墳は、梅の花びらの形に似た配置をされているため「梅鉢御陵(うめばちごりょう)」とも呼ばれています。
また皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」とも呼ばれているそうですよ。
そんな「梅鉢御陵」と呼ばれている史跡をご紹介します。
推古天皇陵
大阪府太子町山田にある推古天皇陵には、彼女の遺言によって先に亡くなられた竹田皇子(たけだのみこ)と一緒に葬られました。
そのため推古天皇陵は東西に長い三段築成の長方墳ですが、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。
坂を上るとすぐ先が推古天皇のお墓です。
宮内庁が管理しており、柵があるため中へ立ち入ることはできません。
この日はとても天気が良く、青空に推古天皇陵の木々がよく映えていました。
敷かれた玉砂利がとてもきれいに整備されており、とても静謐な空気を感じさせます。
用明天皇陵
用明天皇陵の古墳名は「春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)」で、別名「河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」とも呼ばれています。
実はこの古墳は宮内庁によって用明天皇のお墓に定められて入るものの、実際は誰が葬られているのかはっきりわかっていません。
日本書紀によると、用明天皇が崩御されたのちにまず「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られましたが、その数年後に太子町の「河内磯長原陵」に改めて葬られたと記録されています。
用明天皇陵の周りには幅7mほどの空濠がつくられていたとされ、外周まで含めると100m近いとても大きな古墳であることがわかっています。
孝徳天皇陵
孝徳天皇陵の古墳名は「山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)」です。
また清少納言の随筆「枕草子」に出てくる一節「陵は、うぐいすのみささぎ」は、孝徳天皇陵とする説もあります。
その説から「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」という別名で呼ばれることもあります。
実際の被葬者は明らかになっていませんが宮内庁治定「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として孝徳天皇のお墓とされています。
宮内庁が管理しており、柵があるため中へ立ち入ることはできず横側からの参拝となります。
敏達天皇陵
敏達天皇陵の古墳名は「太子西山古墳(たいしにしやまこふん)」または「奥城古墳(おくつきこふん)」といいます。
宮内庁より「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」と「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として、敏達天皇とその母である石姫皇女(いしひめのひめみこ)の合葬陵とされていますが、実際には誰のお墓なのか正確なことはわかっていません。
大型の2段になった全長約93メートルの前方後円墳で、周辺には地図でも確認できるほど大きな空壕がめぐらされています。
宮内庁の管理下のためこれまで大きな発掘調査などは行われていませんが、周辺からは埴輪が出土していることからも、内部には石室があると考えられています。
聖徳太子御廟
叡福寺の南大門から入りまっすぐ進むと、正面に聖徳太子が眠っている聖徳太子御廟があります。聖徳太子御廟には、聖徳太子が亡くなる前日に亡くなられた妃と、2か月前に亡くなった母が共に埋葬されていて「三骨一廟(さんこついちびょう)」となりました。