シリーズ「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
太子町の歴史や史跡を紐解くこのコーナー、前回はかるたでめぐる太子町「し:聖徳太子は まちの宝」の句をご紹介しました。
本日は「し」に続き、「す」で詠まれている推古天皇陵の句について解説します。
かるたでめぐる太子町「す:推古天皇は 初の女帝」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「す」の読み札は、「す:推古天皇は 初の女帝」です。
絵札には、田園風景の中にたたずむ推古天皇陵が描かれています。
そしてかるたの説明書きには以下のように解説されています。
「628年に薨去した第33代推古天皇の「磯長山田陵」。用明天皇と崇崚天皇が立て続けに薨去した後、我が国最初の女帝として即位した。聖徳太子を皇太子として万機を委ね、国家の基盤整備を進めた。」
推古天皇
推古天皇は太子町大字山田にある推古天皇陵にて眠っています。
推古天皇陵の御陵名は「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」です。
この陵には、推古天皇だけでなく天皇の子どもである「竹田皇子(たけだのみこ)」も埋葬されています。
推古天皇は、欽明天皇(きんめいてんのう)と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の娘として生まれ、父である欽明天皇が暗殺さた592年、39歳の時に初の女帝となりました。
そして、日本国という独立した国を維持しながら遣隋使の派遣をおこない、外国文化を取り入れて国の繁栄に力を注ぎます。
75歳に薨去した推古天皇は、豊作に恵まれず国民が飢えている情勢を憂いて「私のために御陵を造って厚く葬る心遣いは不要である。ただ私の遺体を竹田皇子の墓に葬ればよい」と告げました。
人々の暮らしを最後まで想った推古天皇は、太子町の王陵の谷の一つである「推古天皇磯長山田陵」にて眠っています。
山田高塚古墳へのアクセス
名称 | 山田高塚古墳(推古天皇磯長山田陵・竹田皇子墓) |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町山田3320−2 |
アクセス | 近鉄「喜志」からバス「御陵前」下車 南へ0.2km |
地図 |
:大阪府南河内郡太子町大字山田
関等 :近鉄「喜志」からバス「御陵前」下車 南へ0.2km