大阪府太子町内で活動をされているヒトや、太子町出身のヒトに焦点を当て、インタビューをさせていただく太子タウンの「太子のヒト」。
第16回は「太子街人(ガイド)の会」ガイドボランティア片本憲一(かたもとけんいち)さんです。
太子タウン編集長の滋野が片本さんにお話を伺って来ました。
太子町に関わったきっかけ
ー片本さんは太子町にお住まいではありませんが、太子町に関わるきっかけなどがあるんでしょうか?
ぼくは河南町に住んでいます。遠い親戚やおばなどが太子町に住んでいてちょこちょこ遊びに来ていました。通っていた高校には、太子町から来ている学生が何人もいて太子町の友達が多かったんです。
ーお友達に会いに太子町に来ていたんですね
太子町の友達の家に泊まらせてもらって、一緒に西方院や叡福寺へ遊びに行ったりしてました。上宮太子高等学校のグラウンドでキャッチボールや野球をしたり、楽しかったですよ。
ー河南町から太子町までどうやって来ていたんですか
太子町の畑(はた)のトンネルを抜けたら河南町の平石なんですけど、昔はトンネルがまだなかった。三本松の峠というのがあって歩いてその峠を越えて畑まで出ていました。道が良くてすごくいい散歩道なんですよ。
太子中学校勤務中の思い出
ー太子町の人は片本さんのことを「片本先生」と呼ぶ人が多いです
学校の教員をやっていました。昭和58年から13年間太子中学校で教えていて、科目は国語を受け持っていたんです。太子中学校の後、狭山でも教員をやってから定年退職になりました。
ー太子中学校はどうでしたか?
太子中学校は「南河内の学習院」と呼ばれていたくらいレベルが高かったんです。生徒が本当に温順で授業もしっかり聞いてくれていた。中学生でしたが、感覚が大人です。聖徳太子のおひざ元の町民であるのにふさわしい、育ちのいい生徒ばかりでしたよ。
ー教員を定年退職されてからどうされてたんでしょうか
60歳からどうしてもまた学び直しがしたくなり、南河内で非常勤講師もしながら大阪大谷大学院文学部文化財学科の修士課程で3年間学びました。大阪大谷大学大学院に決めたのは、南河内地方の地域史に実績があり、龍泉寺の中村浩先生がいて以前から公開講座に参加していたからです。
ー大学院での生活はいかがでしたか
最初に印象に残っているのは、キャンパスで教え子に声をかけられたことです。入学式の時、大学院の席の一番前にいましたね。と言われて、教え子もきていて、一緒に学ぶんだなと思いました。
修士課程には同期入学が4人いて、みな学部から上がってきた子たちで社会人は私だけで年上なので、あまり無様にならないようにしなければと思いました。
ー片本さんの先生たちは、とても素晴らしかったみたいですね
お世話になる担当の先生も優しくフレンドリーに親切に接してくれました。
中村先生以外の授業や教科ですが、同志社大学の辰巳利文先生の授業は大学院らしい内容で楽しかったです。また、宮内庁の正倉院事務所におられた阪田先生の授業も国家珍宝帳をもとに、ひとつひとつの宝物について、詳しく解説していただき、その年の正倉院展に招待してくださいました。
塚口義信先生も来ておられて、院の授業は担当されていなかったのですが、以前から二上山博物館の講演会の時とかに終わった後によく質問をしていて、覚えていてくださっていたので、終末期古墳の文献のコピーなどをくださり、援助していただきました。
苦労した授業は朝鮮考古学のハングル文字の文献を読む授業でした。
太子街人の会と竹内街道歴史資料館とのかかわり
ー竹内街道歴史資料館ともかかわっておられますよね
竹内街道歴史資料館は文化財を勉強している人に人気があり、朝からしかも遠方からもわざわざ通ってくる人がいるくらいでした。
そういう人たちと話をしていると知らない歴史のことを教えてもらえるし、こちらからも話すし、楽しかったです。いろんな出会いがあり同じくらいの時期に「太子街人(ガイド)の会」にも参加させてもらったんです。
ー定年退職後に博物館学芸員の資格も取ったとか
通信制の大学で、半年間みっちり勉強しましたよ。あれはきつかった。いままた同じことやれと言われても絶対無理です。博物館実習のタイミングを2度のがしてしまい、卒業を延期して3度目でようやく実習を受けて資格を取ることが出来ました。
これからやってみたいこと
太子町・河南町の文化財保護条例の制定に関わりたいです。太子町誌や河南町誌の編纂や改定も興味がありますよ。
「生涯学習」を体現されている片本さん。歴史について話すとき、心から楽しそうで伺ってるこちらもニコニコしてしまいました。みなさんも片本さんの歴史解説を聞きながら、太子町内を歩いてみませんか?
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