科長神社に行ってみた

大阪府太子町のちょうど真ん中、緑豊かな山に囲まれた場所に科長(しなが)神社があります。
この科長神社は歴史が古く、平安時代927年にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にも記録がのこっているほどです。

科長神社

科長神社は太子町でただひとつの式内社(「延喜式」に名前が載っている神社のこと)で、とても歴史が長い神社です。

神社のできた時期は不詳ですが、元をたどると「二上権現」と呼ばれた二上山にある神社でした。
その後1238年(鎌倉時代)に現在地へ移ってきたといわれています。

科長神社では級長津彦命(しながつひこのみこと)と級長津姫命(しながつひめのみこと)を合わせて祀っています。
そのほかにも二神に加えて天照大神などの合計八神が祀られているため、江戸時代までは俗に八社大明神とも呼ばれていました。

境内社として二上神社・恵比須神社・琴平神社・稲荷神社があり、鳥居のすぐそばには小野妹子の墓と伝えられる塚もみることができます。

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この長い歴史を持つ科長神社ですが、実は「神功皇后伝説」の残る謎多き神社でもあります。

神功皇后

神功皇后とは「日本書紀」や「古事記」に登場する皇太后で、14代目仲哀天皇の妻で15代目応神天皇の母であったと記されています。

神功皇后は妊娠中にもかかわらず軍を率いて朝鮮半島での戦いに勝利したり(三韓征伐)、出産を遅らせるために腰に石を巻き付けて出陣したなどの伝説が残っています。

69年間も皇太后として政治の頂点にいた神功皇后は、明治時代に10円札の肖像画に選ばれるほど人気だったそうです。

政治家としても有能であった彼女は、まさに女傑という言葉がふさわしい皇后ですね。

科長神社に残る神功皇后の伝説

その神功皇后の生誕の地が、科長神社だったという伝説があります。

その言い伝えの根拠として、科長神社には神功皇后の使っていた兜の雛形が社宝として残っていることが挙げられます。
この兜は太子町立竹内街道歴史資料館にレプリカが展示されており、一般公開されています。

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また神功皇后は奈良時代に送られた呼び名であり、元々は「息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)」というお名前で息長氏の出身でした。
もともと科長神社のある地域が息長氏が支配する土地だったのではないかとの連想から
「科長(しなが)→磯長(きなが)→息長(おきなが)」と言い換えられていき、神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないかともいわれています。

だんじり祭り

7月24日から30日の間は神輿地車(だんじり)5台が出るお祭りが行われます。

とても威勢のいい夏祭りは、見ているだけで元気になれますよ。

ぜひ一度足を運んでみてくださいね。

アクセス

名称 科長神社
神社コード 11011
鎮座地 〒 583-0992 大阪府南河内郡太子町大字山田3751
アクセス 近鉄南大阪線「上ノ太子駅」より金剛バス畑・白石線に乗り換え、「科長神社口・ふくの音前」で下車
地図

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