シリーズ「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
先週は、「ち:近つ飛鳥で 勾玉づくり」から近つ飛鳥博物館と勾玉についてご紹介しました。
本日は「ち」に続き、「つ」の句で詠まれている「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)の墓」について解説します。
かるたでめぐる太子町「つ:椿の下に眠る 石川麻呂(いしかわまろ)」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「つ」の読み札は、「つ:椿の下に眠る 石川麻呂(いしかわまろ)」です。
絵札には、椿の花弁が舞い散った下にのぞく石室の天井が描かれています。
そして読み札には以下のように解説させています。
「山田の仏陀寺境内にある古墳は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみ の かまたり)とともに大化の改新(たいかのかいしん)を成し遂げた蘇我倉山田石川麻呂の墓の墓と伝えられる。改新政府では右大臣となったが、讒言(ざんげん)により難波の都を追われ大和の山田寺で658年に自害した。」
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)の墓
伝蘇我倉山田石川麻呂の墓、別名「仏陀寺古墳」は、大化の改新を実行した「蘇我倉山田石川麻呂の墓」と古くから伝えられています。
蘇我倉山田石川麻呂は、飛鳥時代に生きた豪族です。
日本書紀によると、蘇我倉山田石川麻呂は、当時の天皇である「孝徳天皇」のもと改新政権では「右大臣」に任じられていました。
しかし異母弟の蘇我日向(そがのひむか)により「蘇我倉山田石川麻呂が、中大兄皇子の殺害を企んでいる」という疑惑をかけられます。
蘇我倉山田石川麻呂の息子は、父の冤罪を知っており朝廷での争いを打診しますが、蘇我倉山田石川麻呂はそれを拒否します。
そして石川麻呂は自らの潔白を証明し、皇に忠誠心を持ったまま死を選ぶことになりました。
石川麻呂は妻子8人とともにに奈良県桜井市に位置する「山田寺」で自害するということを選んだのです。
蘇我倉山田石川麻呂の墓は大阪府太子町ではなく「岐阜県各務原市」に位置するという説もありますが、墓の近辺に性に関わる「石川」が流れていること、また蘇我氏の育った地であることから、太子町に墓があることが有力とされています。
このような背景から絵札を再度見ると、立派な椿が蘇我倉山田石川麻呂氏の石棺にボトリと無情にも落ちているように感じられます。
伝蘇我倉山田石川麻呂の墓へのアクセス
名称 | 仏陀寺古墳(伝蘇我倉山田石川麻呂の墓) |
所在地 | 〒583-0992 大阪府南河内郡太子町山田2820 |
アクセス | 近鉄長野線「貴志駅」を下車。その後、金剛バス太子循環線に乗車し「山田停留所」にて下車。停留所より徒歩約5分程度。 |
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