毎月24日は、お地蔵さまの縁日です。

実は大阪府太子町の町内に、たくさんのお地蔵さまが点在しているのをご存知ですか?

【大阪府太子町】毎月24日は地蔵の縁日です・太子町の「お地蔵さま」をご紹介

金剛バスの太子循環線に「泥掛け地蔵前」というバス停があります。

その名の通り、このバス停のすぐ近くにある横断歩道の前には「泥掛け地蔵」が祀られています。

地蔵堂内には賽銭箱、香炉、祭壇があり、木造の扉の向こうにお地蔵さまがいらっしゃいます。

お地蔵さまが蓮華座の上に立っている姿で、高さは1メートル36センチあります。

花崗岩でできた舟形地蔵であることは分かっていますが、泥掛け地蔵にまつわるはっきりした記録は残されていません。中世の終わりごろから近世の初頭の建立ではないかと言われています。

昔はこのお地蔵さまに泥を塗り、自分や大切な人と同じ箇所を撫でて、皮膚の病や痛みの回復を祈っていました。しかしこの風習は第二次世界大戦以降なくなり、現在ではお地蔵さまに直接泥をかけずにお参りするようになったようです。

泥のあるなしに関わらず、お地蔵さまは変わらぬご利益で太子町を見守ってくださっています。

「泥掛け地蔵」の昔話

泥を塗って祈願するようになった言われに、こんな昔話があります。

身体の調子が悪い箇所に泥を塗ると治癒されるという昔話が残る「泥掛け地蔵」は、一帯がまだ喜志村だった頃に子どものなかなか治らない腫れ物を心配した母親が、願をかけに訪れました。そして満願と言われる100日目のお参りの日に寝入ってしまった母親の夢枕にお地蔵さまが立ち、お告げをしたそうです。

そのお告げによると、泥掛け地蔵は昔、蓮池の底に沈んでおり、地元の人達によって引き揚げられたため、今でも蓮池の底を懐かしんでいるので、その泥を塗ってほしい、そうすれば塗った箇所の不具合を治すなどの願いをかなえるといったものでした。

母親はさっそくそのお告げ通りにお地蔵さまに泥をかけ、祈りました。帰ってみると子どもの腫れ物はすっかり良くなっていたそうです。

そうして泥掛け地蔵に泥をかけ祈る風習が生まれました。

ここに書かれている「喜志村」とは、明治時代に現在の近鉄喜志駅周辺にあった村です。昭和17年に合併され富田林町となりました。

「蓮池」は泥掛け地蔵横の囲いの中ですが、現在では水が枯れており跡地だけが残っています。

また昔話の他にも、聖徳太子がここで物部守屋(もののべのもりや)を討ち「今後は人々の助けになりなさい」という願いを込めて守屋の像を作ったものとされている逸話も残っています。

入口の「大峯山三拾三度」石碑について

入り口付近に建てられた石碑には「大峯山三拾三度 吉田安吉」と彫られています。

大峯山三拾三度とは、修験道発祥の霊峰「大峯山」に修行者が33回入山し厳しい修行に耐えたことを意味しています。これは修行の回数により、それぞれ7回で小先達、10回で中先達、11回以上で先達、33回で大先達の免状が授与されたことに由来しており、この「大先達」は一般の修行者が授かることのできる最高位とされています。

33回の修行を収めたことを記念して、南大阪や奈良の各地に修行者の名前とともに「大峯山三十三度記念碑」や「供養塔」が残されています。

おわりに

毎月24日がお地蔵さまの縁日ですが、特に8月23-24日が最も大きな縁日で地蔵盆として親しまれています。

地区によってどちらの日になるかは違っています。また平日ではなく人が集まりやすい23-24日に近いに土日に変更されている地域もあるようです。その日には地元の方がお地蔵さまに花を供え、線香をあげ、祈りをささげます。

泥掛け地蔵だけではなく、太子町のお地蔵さまたちは今も地元の人々によって大切に守られていることが分かりますね。

アクセス

名称 泥掛け地蔵尊
所在地 〒583-0995 大阪府南河内郡太子町太子1737
電話番号 なし
アクセス 近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス太子中央循環線に乗り「泥掛け地蔵前」で下車して徒歩1分
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