大阪府太子町には、第30代敏達(びだつ)天皇の眠るお墓があります。
大阪芸術大学の近くにある墳墓は大型の前方後円墳で、太子町につくられた最初の天皇陵ではないかと言われています。
太子町は古墳群が多いことで有名ですが、特に敏達天皇陵と聖徳太子の墓、用明(ようめい)天皇陵、孝徳(こうとく)天皇陵、推古(すいこ)天皇陵の五つの皇陵は、梅の形に似た配置をされているため「梅鉢御陵(うめばちごりょう)」とも呼ばれています。
この敏達天皇陵は細く続く石張りの道を越えた先にあります。
左右をうっそうとした木々に覆われており、街の喧騒から離れたとても神秘的な場所です。
敏達天皇陵
敏達天皇陵の古墳名は「太子西山古墳(たいしにしやまこふん)」または「奥城古墳(おくつきこふん)」といいます。
宮内庁より「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」と「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として、敏達天皇とその母である石姫皇女の合葬陵とされていますが、実際には誰のお墓なのか正確なことはわかっていません。
大型の2段になった全長約93メートルの前方後円墳で、周辺には地図でも確認できるほど大きな空壕がめぐらされています。
宮内庁の管理下のためこれまで大きな発掘調査などは行われていませんが、周辺からは埴輪が出土していることからも、内部には石室があると考えられています。
敏達天皇
敏達天皇は日本の第30代天皇で、572年4月30日に即位されました。
時代は物部守屋(もののべのもりや)や蘇我馬子(そがのうまこ)が仏教伝来をめぐって激しく対立していたころでした。
敏達天皇はそのなかで仏教禁止令をだし、仏像や仏殿を燃やすなど、物部守屋と同じ廃仏派であったと考えられています。
この敏達天皇は病のため585年に崩御され、「太子西山古墳」に葬られました。
その後の用明天皇や推古天皇、聖徳太子が仏教信仰を推進したことから考えると、敏達天皇は仏教反対派の最後の天皇だったと言えるでしょう。
それを裏付けるように大阪府太子町にある磯長谷古墳群(しながたにこふんぐん)のなかでもこの敏達天皇陵だけが前方後円墳であり、その後にできた天皇陵はどれも異なる形をしています。
ある意味では、敏達天皇をさかいに日本の歴史が変わったといえるのかもしれませんね。
アクセス
名称 | 太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵) |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子 |
アクセス | 近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バス太子中央循環線に乗り、「敏達天皇陵前」で下車 |
または近鉄長野線「喜志」駅から金剛バス太子葉室循環線に乗り、「敏達天皇陵前」で下車 | |
地図 |
※お手洗い、駐車場なし