シリーズ「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
先週は、「め」の句から、とても珍しい形をしてる「二子塚古墳」についてご紹介しました。
本日は、「め」に続き「も」で詠まれている「敏達陵」についてのお話です。
「も:もう一歩 足をのばして 敏達陵(びだつりょう)」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「も」の読み札は、「も:もう一歩 足をのばして 敏達陵(びだつりょう)」です。
絵札には、木のトンネルをくぐった先に見える鳥居が描かれています。
敏達陵までの参道は自然豊かな木々に囲まれており、どこか神秘的な様子も絵札からは感じられます。
そして筒井先生による解説は以下の通りです。
「585年に薨去した第30代敏達天皇の「河内磯長中尾陵」。
蘇我馬子が仏を祀ると疫病がはやったと 物部守屋が進言したたため廃仏を勧めた。
在位14年で亡くなりその亡骸は母の欽明天皇の皇后石姫(いわひめ)の墓に合葬したと 伝えられる」
第30代敏達天皇
日本史において重要な役割を果たした第30代敏達天皇は、585年に薨去し、河内磯長中尾陵に埋葬されたことで知られています。
敏達天皇の時代は、仏教の受容とそれに伴う政治的変動が特徴的であり、その治世は日本史における重要な転換期の一つとされています。
特に記憶に残る出来事は、当時の有力な豪族であった蘇我馬子が仏を祀った後に疫病が流行したことに対し、物部守屋が廃仏を進言したエピソードです。
この進言は、仏教信仰をよく思っていなかった敏達天皇や、また宗教と政治の複雑な関係を示しています。
敏達天皇は在位14年となる48歳で亡くなりました。
日本書紀によると、天皇や皇后の墓である「陵 」は、「磯長の陵に葬めまつりき。」というふうに記させています。
この陵は太子町に造られた最も古い天皇陵だといわれています。
太子町に寺院や遺跡、古墳巡りに訪れた際はぜひ足を伸ばして、最も歴史がある「敏達陵」にも訪れてみてくださいね。