「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」を解説しています。
前回は、「ら」の句から、春のイベント「岳のぼり」についてご紹介しました。
今週は、「り」で詠まれている、聖徳太子伝説にまつわる丘のお話です。
「り:りっぱな石塔 五字ヶ峯(ごじがみね)」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「り」の読み札は、「り:りっぱな石塔 五字ヶ峯(ごじがみね)」
まず、絵札には、五字ヶ峯山頂にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)が描かれています。
周囲を囲む結界石が歴史の重みを感じますね。
背景に広がる木々は新緑でしょうか?五字ヶ峯の自然美を一層引き立てています。
そして、筒井先生の解説は以下の通りです。
「五字ヶ峯は、聖徳太子御廟の裏山のことです。
その頂上には、結界石に囲われた宝篋印塔があります。
推古天皇六年 (598) に聖徳太子が甲斐国より献上された黒駒に乗り全国巡視した際、河内あたりの五色に輝く光が見えまし た。
太子は、自分の墓所にふさわしい霊地と考え、見つけたのがこの地でした。」
五字ヶ峯(ごじがみね)
大阪府太子町に位置する五字ヶ峯(ごじがみね)は、地元の人々に親しまれている小高い山です。
場所は、叡福寺にある聖徳太子の御廟所の裏手にあります。
この山は、太子町の自然と歴史を感じられる場所として知られていますが、実はある伝説があります。
というのも、聖徳太子が霊地として自身の墓所にふさわしいと見定めた場所こそが、「五字ヶ峯(ごじがみね)」なんですよ。
聖徳太子が富士山から西の方角を見た際、この場所に五色の虹が掛かっていたとされ、その光景を見た聖徳太子は「この場所を自分の墓に」と言ったと伝えられています。
頂上には、江戸時代に建てられたとする供養塔があり、結界石に囲まれています。
この供養塔と結界石は、地域の歴史と信仰の象徴として多くの人々に崇敬されています。