【太子町春日】ひっそりとたたずむ願蓮上人(がんれんしょうにん)の石塔

太子町立の磯長小学校と幼稚園の西側にひっそりと佇んでいる石塔があります。

石塔の手前にある標石には「願蓮上人之墓(がんれんしょうにんのはか)」裏側には「叡福寺(えいふくじ)」と彫られています。願蓮上人(がんれんしょうにん)は、天台宗の学僧であったとの記録が残されていますが生没年などの詳細は不明です。

浄土宗の開祖とされる法然(ほうねん)が編纂した念仏修行の指導書には「願蓮(上人)」の名前があるため、1133年生まれで1212年に亡くなった法然と同じ時代を生きていた人物であることが分かります。

願蓮上人の名前は、次のような逸話として残っています。

鎌倉時代の武士で、のちの百人一首の原型を作った蓮生(れんしょう)は、28歳で出家し、法然の教えに感銘を受けて念仏門に入った人物なのですが、蓮生が「法然が亡くなった後は誰に教えを請えばいいのか」と法然に聞いたところ、「まずは、聖徳太子御廟のそばに住んでいる願蓮に師事するように」との答えがあったそうです。

法然は最初、蓮生からの質問に対して弟子の証空(しょうくう)の名前を挙げましたが、答えを改めて願蓮としました。その理由には、「浄土宗の学者も余学を知ざるはいふかひなき事」という考えが根底にあったといわれています。

また、公卿・九条兼実(くじょう かねざね)の日記「玉葉」にも願蓮上人の名前が頻繁に登場しており、親交があったことがうかがえます。「玉葉」は、平安時代の終わりごろから鎌倉時代の初めに書かれた作品で、当時の文化を知るうえで一級史料となっています。

現在は管理者がいないのか、標石は傾き石塔にもお供え物などは見当たりません。近くに立ち寄ったら、手を合わせてお参りしてみましょう。

アクセス

名称 願蓮上人之墓
所在地 大阪府南河内郡太子町春日2170-50
アクセス 近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス太子中央循環線に乗り「和みの広場前」で下車、徒歩5分
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