大豆は、味噌や醤油、豆腐、納豆など、私たちの食生活にとても大切な食材です。
太子町では、大豆を「畔豆(あぜまめ)」「じゃぜまめ」と呼ばれていました。
かつては太子町の農家で大豆を栽培していた歴史があります。
太子町の畔豆の名前の由来と利用法
畔豆の栽培は、その名の通り田植えの際に田んぼの畔に小豆と一緒に種を蒔いていました。
そして稲刈りの時期に収穫します。
収穫した後は、稲と同じように逆さまに吊るして乾燥させます。乾いたら豆を鞘から取り出す作業を行うのです。
この作業は、豆を打ち出す特別な「唐竿(からさお)」と呼ばれる道具を使います。これは、竿の先にもう一本小さな竿を取り付けて回転させるものだったようです。
取り出した豆と殻は、底が粗い蓑を使って分けられます。
豆の木の利用と風習について
仕分けをして残った豆の殻や木は、竈や風呂を沸かす燃料として利用していました。特にお正月には雑煮を作るのに使われ「1年中まめに暮らせますように」という願いを込めていたそうです。
お正月に燃やされた豆の木の残った軸を竈に並べて、1年の運勢を占うという風習もありました。
収穫された大豆は、醤油や豆腐、味噌を作る原料として使いました。また家庭では餅に入れたり、子供のおやつとして炒ったりといろいろ楽しんだようです。近くの池で捕れた海老や魚と一緒に煮て、おかずとしても食べられました。
年越しの豆は、この畔豆を「炮烙(ほうらく)」と呼ばれる素焼きの平たい土鍋を用いて炒ったものを使用していたとのこと。
山田地区の大豆を使った醤油造り
太子町の山田地区では、戦時中から昭和30年代まで、町内会の集会所で醤油造りが行われていました。
この際、家族1人当たり大豆と小麦をそれぞれ持ち寄りました。大きな桶で醤油麹を作り、水と塩と一緒に仕込んでいたそうです。仕込んだ後は、約1か月間毎日かき混ぜます。そうしなければ固まってしまうため、期間中は当番を決めて毎朝作業が行われていたそうです。
完成した醤油は、1人当たりの割り当て量が決められていました。そして余った分は販売して町内会の運営費に充てました。
この醤油造りは、夏から冬にかけて地域で大切にされていた伝統です。
太子町の畔豆 かつての大豆栽培と風習まとめ
かつて太子町で栽培されていた大豆こと「畔豆」は、地域の食文化や風習に深く結びついていました。
大豆の栽培が行われなくなった現在でも、毎年太子町内の婦人会の方々が太子みそづくりを続けています。
文化を後世に残す、大切な活動です。
参考文献:「太子の年中行事」太子町立竹内街道歴史資料館 平成6年3月3日発行