大人気「かるたでめぐる太子町」では、筒井完次さんの「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」から太子町の歴史を紐解いています。
前回は、「そ:息災祈る 聖燈会(しょうとうえ)」にて、太子町の冬のイベント「聖燈会」をご紹介しました。
本日は、「そ」に続き「た」にまつわる用明天皇陵の句を解説します。
かるたでめぐる太子町「た:太子の父親 用明天皇(ようめいてんのう)」
「切り絵でめぐる太子町郷土史かるた」の「た」の読み札は、「た:太子の父親 用明天皇(ようめいてんのう)」です。
絵札には、手入れが行き届いた生け垣の奥に用明天皇陵が描かれています。
かるた説明書きには以下の通りです。
「587年に薨去した用明天皇の河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)。はじめ磐余(いわれ)地上陵に葬られ593年に現陵に改葬された。穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を妃として子に聖徳太子を得た。仏教への信仰が深かったが即位後わずか2年で病で没した。」
用明天皇
大阪府太子町には聖徳太子の父である用明天皇が眠るとされる墓があります。
日本の成り立ちが記されている日本書紀によると、第31第用明天皇の死後である587年7月21日に、磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)に葬られたと記されているのがわかります。
しかし、その6年後である推古元年の593年の9月に「河内の磯長の陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」に改めて葬ったと追記されているのです。
改葬の理由や考古学的な詳細は未だ明らかになっておらず、河内磯長原陵に実際に誰が葬られているのかなど分かっていないことも多いです。
用明天皇は蘇我氏と物部氏と激しく対立しながらも、仏教に帰依しその繁栄に貢献したとされています。
しかし在位わずか2年で病に倒れ、短い生涯に幕を閉じました。
用明天皇陵を実際に訪れた記事は下記のサイトからご覧いただけます。
用明天皇陵へのアクセス
名称 | 春日向山古墳(用明天皇河内磯長陵) |
所在地 | 〒583-0991 大阪府南河内郡太子町春日 |
アクセス | 近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バス太子線に乗り、「用明天皇陵前」で下車 |
または太子町コミュニティバスの福祉センター役場線にのり「用明天皇陵前」で下車 | |
地図 |
※お手洗い、駐車場なし