終戦の日 二上山雌岳監視硝の記録

8月15日は「終戦の日」です。

1939年から1945年の間に起こった第二次世界大戦が日本の降伏によって終わった日です。

2022年の今年、終戦から77年が経っています。

大阪では第二次世界大戦末期の1945年3月に大阪市を中心とした大阪大空襲がありました。この大空襲で1万2,000人以上の一般市民が亡くなっています。その後7回も空襲に遭いました。

太子町は直接空襲の被害こそありませんでしたが、軍隊への招集は行われ戦地へ赴いた町民の方がおられます。

太子町内には戦没者の墓地が数か所あり、今でも遺族会の方が定期的にお参りや清掃を行っています。

二上山雌岳監視硝(かんししょう)

二上山の雌岳山頂に防空監視硝(かんししょう)である「二上山雌岳監視硝」が存在していました。

防空監視硝とは見晴らしの良いところで敵機の来襲を発見し、防空本部へ伝達するための大日本帝国陸軍の施設です。

二上山の雌岳の山頂は視界が開けていて、大阪湾や紀伊水道方面まで見渡せるので監視に最適でした。

二上山雌岳監視硝の班員はほとんどが召集前の20歳以前の若者たちで、太子町の山田地区出身者からなる二班、春日地区出身者の二班、現河南町石川地区の出身者で一班という編成だったそうです。

1943年の春に始まった施設の工事には太子町民が多数動員され、まずは竹内街道から二上山の雌岳へ向かう道路の整備から開始されています。資材は人か牛車で運ばれました。

同年の12月に二上山雌岳監視硝が完成しています。

完成した監視哨には、機体を望遠鏡や双眼鏡で確認する足場「立硝台」、音を拾うために特殊な形に採掘された「聴音壕」、本部と連絡を取る「通信室」、一時避難用の「防空壕」などがありました。

担当空域での敵機の発見の仕方や連絡方法については、機種の判別、高度・速度の計算法など各種詳細に規定されていて、配備された監視隊員はみっちりと訓練を受たそうです。

教育された監視隊の精度の高さのおかげで、迎撃作戦にはとても有効でした。

しかし、二上山雌岳監視硝自体には、攻撃を受けても応戦できるような武器や兵器は一切なく、隊員は防空壕に避難するしかなかったという逸話が残されています。

二上山雌岳監視硝の記録

太子町の方から聞いたお話

監視と言っても現在とは違い、当時は人間の判断に頼るため

富田林で先に警報が出されたのに太子町側では遅れてしまい、怒られた」という話があったり、

「グラマン(F6F ヘルキャット)が余った爆弾を二上山へ落として行った」

「二上山から大阪大空襲が見え、西の空が真っ赤になっていた」

「戦闘機が空襲の帰りに、農作業をする一般町民へ向かって機銃掃射をしていった」

など生々しい証言もありました。

 

現在、二上山の山頂には監視硝の痕跡はありません。

頂上の広場では、万葉の森の日時計が平和な毎日の時を刻んでいます。

二上山日時計

参考書籍:「日常の中の戦争遺跡」/大西進著