あまり聞きなれない「石窟寺院」という、岩を掘って作られた寺の史跡が二上山に残っています。
この石窟寺院は「岩屋(いわや)」と呼ばれており、1948年(昭和23年)に国定史跡に、2021年(令和3年)7月に日本遺産の構成文化財に追加認定されました。
別名「二上(ふたかみ)山廃寺跡」でもあります。
大きな岩を大小2か所くりぬいて作られており、大きいほうは幅7.6m、高さ6.14m、奥行き4.5mの規模です。
左の壁には三尊像が彫刻されていますが、風化により大部分が剥がれ、仏像の姿をハッキリと目視することが出来なくなっています。
岩屋のはじまり
岩屋が出来た時期や関わった人物、造られた経緯については、残念ながら何も記録や文献が残されておらず不明です。
岩屋やその周辺より出土した遺物の年代から、少なくとも奈良時代前半には作られたのではないかと見られていますが、推測の域を出ません。
江戸時代に発行された観光ガイドブック「河内名所図会」の第6巻には、すでに岩屋が観光地として紹介されています。
岩屋(岩窟)の図では、岩を彫り出した三尊像や石仏が見え、凝灰岩で作られた高さ2mある三層塔の姿もはっきり描かれています。
観光客が中まで自由に出入りして見学し、物売りまで来ている様子がとても楽しそうです。
次のページでは、二上山全体図から岩屋の位置がよく分かります。
岩屋の解説では図の時に使用した「岩窟」という漢字ではなく「厳窟」が使われているのが不思議ですね。
葛城(かつらぎ)修験(しゅげん)の場としての岩屋
大阪と奈良の県境に金剛山地がそびえています。この山地はたくさんの神々が住んでいると信じられ「葛城(かつらぎ)」と呼ばれていました。
修験道(しゅげんどう)とは山の中で厳しい修業をして、出家などをせずに仏の悟りに到達する日本古来の山岳信仰です。
修験道の開祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)が初めて修験を行った山が葛城だと伝えられています。
葛城の山々を巡って厳しい山籠もりをする役行者の修験道を「葛城修験」、葛城修験でめぐる全28か所の行場が「葛城二十八宿」という経塚です。
重要な行場は「河内名所図会」に図解がされています。
「葛城二十八宿」の26か所目の経塚(きょうづか)「第二十六番経塚」は二上山の山頂付近のことですが、鎌倉時代初期に発行された「諸山縁起(しょざんえんぎ)」によると、元々は岩屋に経塚があったようです。
経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚。後世まで教法を伝えようとし、また追善供養や現世利益げんぜりやくなどを目的に平安中期から近世にかけて行われた。仏具などを添えることが多く、経石・瓦経なども埋めた。
出典:小学館 デジタル大辞泉
また、岩屋の天井部分に直径10㎝ほどの穴が何か所も残っており、岩穴の前に木造の建物が立てられていた可能性があります。
岩屋まとめ
石窟寺院はインドで始まり、中央アジアや中国、朝鮮半島にも広がっている様式です。
奈良時代は日本が盛んに中国や朝鮮半島などと外交を行っていた時期であるため、大陸からの影響があるのかもしれません。
謎がたくさん残されたままの岩屋ですが、さまざまな歴史的考察を楽しみながら足を運んでみてください。
アクセス
名称 | 岩屋(いわや) |
所在地 | 〒583-0992 大阪府南河内郡太子町山田 |
地図 |